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* Diary *

ぼくは晩飯を一人で食う

世の中には――というほど一般的でなくともいいか。少なくとも僕の知人にも――さびしがりな人がいて、一人でご飯を食べるのはさびしくて仕方がないからなるべく避けたい、という(ちなみに男)。
ぼくは、自信をもっていうが、晩飯を一人で食う。
食堂の隅の、薄暗いテーブルを陣取り、窓の外の夜景を眺めながら、食事と人生をかみしめる。
その日一日の仕事をふりかえり、ひっかかっているいろんなこと…たとえば、いま書いているようなことを考える。
実に贅沢な時間だ。
そりゃ、人と会話を楽しむ夕食も悪くない。
しかし、「一人じゃご飯が食べられない」的な不安というのは、ちょっと共感できない。
(これを読んだみなさん。だからといって、一人で夕食を食べるぼくに声をかけるのをはばかる必要はありませんよ。念のため。)

どうして、一人で飯を食うことをなんとも思わない人と、さびしくてたまらないという人がいるか、ちょっと考えてみたのだが…

簡単にいえば、基本的にぼくは「自分が好き」。
一人でいて、自分と対話することがぜんぜん苦痛じゃない。
もう少しいうと、退屈なときでも、少なくとも飯を食えば、「お、これ味付けは何だろう」「どうやったらつくれるのかな?」と、少なくとも料理を作ってくれた人とも料理を通じて対話ができる。
電車に乗れば、中吊り広告や、乗客の服を見て、同じように対話ができる。

でも考えてみれば、昔、グラフィック・デザインの仕事を専門にやっていたときは、その中吊り広告や駅のポスターを見るたびに、いちいち「あぁ、自分の仕事はこんな水準にはほど遠い」と気がめいって、目をつぶるように足早に通り過ぎていたことがあった。
高校・大学の受験のときにも似たような「焦り」があったような気がする。
必死で勉強した後にはそれなりに点数が上がるが、その喜びと引き換えに「青春」の大事な時間をムダにしてしまったようなさびしい気持ちを感じたことは一度や二度ではない。
一方、数学の微積分(とくに積分)がさっぱりわからず、「まぁいいや」と思いながら、そうやってあきらめてしまう自分を好きになれなかった。

身をすり減らすような競争のなかにいるとき、「自分が好き」と思える人はいないのではないだろうか。
たとえ、相対的な勝者であっても、敗者であっても。

なんてことに思いをはせていたところ、先月末に国連子どもの権利委員会が日本に対して出した勧告(「Action for the Rights of Children」)の内容を知った。
ここには、ずばり、日本では「教育制度の過度に競争的な性質によって、子どもの身体的および精神的健康に悪影響が生じ、かつ子どもが最大限可能なまで発達することが阻害されている」ことを指摘し、その是正を勧告している。
つまり、競争教育がはげしすぎて精神的な問題をかかえている子ども、そしてそのまま大人になる人がいる問題を指摘している。

関連してぜひ紹介したいのが、イラクへの自衛隊派遣に反対する署名を一人の高校生が5000人を超える人から集めて小泉首相に届けたというニュースだ。
このニュースを聞いて思ったのは、きっとこの高校生は、5000人もの人との共感を実感したのだから、一人でいることにさびしさを感じたりはしないだろうな、ということ。

で、また小泉首相の反応というのが、署名を見もせずに「イラクは複雑だということを学校できちんと教えるべき」というもの。
この態度は、イラクへの自衛隊派兵についての国民世論に、憲法9条だけでなく国民の請願権に、日本の教育のゆがみのせいで切実に自己肯定感をもとめている高校生に、冷や水をあびせた一言ではないか。
こんなにも冷たい人物が「人道」復興支援だの、自衛隊員の「安全」だの、そらぞらしいにもほどがある。

きょうもぼくは、一人で晩飯を食った。
きょうの晩飯はちょっとしょっぱい。

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