「標準デジカメ撮影講座」

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標準デジカメ撮影講座
著者 : 久門 易
出版社 : 翔泳社 / 定価 2,310円(消費税110円ふくむ)

「いい写真」を撮るのに絶対的に必要なのは感性だ――と、思っている人がいるとすれば、大きな誤解だ。
ぼくは、かつて写真を生業にしていたときもあったのだが、雑誌、ポスターなどなど、一般に目にする「いい写真」の大部分は、すでに確立したテクニックやルールの蓄積でなりたっている。

この本は、「デジカメ」を銘打ってはいるけれど、写真の世界の蓄積されたノウハウのおいしいとこどりができる実に、便利で有意義な一冊だ。
人物写真(男性、女性と分けている!!)ならとか、ネットオークション用の小物なら、などなど、具体的なシチュエーション別に失敗例、成功例をしめし、たしかにどこかの雑誌でみたような…という一定水準の写真がとれるような「気分」にさせてくれる。

能楽の野村萬斎さんが、小さな息子に稽古をつけているようすを最近TVで見た。
萬斎さんは「ぼくも同じことを親父にされた」といっていたが、「才能」や「感性」以前に、長い時間をかけて反復練習することで重要な一部分がつくられる事例の一つとうけとめた。

日本では、親から子へという「子々孫々」「一子相伝」という印象がつよいのもあって、血筋が技術の蓄積を覆い隠してしまうという面もある。
しかし、画家レンブラントが工房の名のもとに多くの弟子を集め、基礎的な技術の蓄積を積みかさねさせたことなどを考えても、やはり技術やノウハウの蓄積、反復練習の意義の大きさを感じる。

「私にはセンスがないから」――という言葉は、本当に基本的な技術の蓄積だけでは勝負にならないトップレベルの世界では通用しても、一般の人のレベルでは「何か」に努力しないいいわけや、あきらめのいいわけぐらいにしか役に立たない、とぼくは思う。

だからといって、かならずしも地道な努力が絶対的かというと、そうとも思わない。
この本のように、読んだだけで一定の蓄積ができるのなら、それでもいいじゃないか。
一定の技術の蓄積のうえではじめてそのことの本質に出会うことができる、と思うからだ。
たとえるなら、ゲームの組み立てとか、パスの連携とかいうサッカーのおもしろさの本質は、「ボールを(だいたい)ねらったところに蹴れる」というごく初歩的な技術の上にしかなりたたない。
多くの人が多くのことに挑戦するときに、この「ボールをねらったところに蹴る」レベルのことができずに挫折していく。
簡単に「ボールをねらったところに蹴る」ことを身につける方法があるなら、それでサッカーの本質的な楽しさや難しさと格闘するほうが、ずっと楽しいに決まってる。

「そんなの邪道だ」という人には、三平方の定理を学校で習うのも邪道か、と聞きたい。
たしかにピタゴラスは苦労したろうが、これを簡単にクリアーできるからこそ、人類はより高度な問題に挑戦してるんじゃないか。

もちろん、「本質の世界」でも、やはり基礎的なことの積みかさねが必要だったり、もしくはよりしのぎを削る世界では、感性がものをいうこともあるだろう。
しかし、その感性もとっぴなところからあらわれるのではなく、基礎的なことをやっていくうえでのその人なりのこだわりや、その人が生活していくなかで出会うほかのジャンルから得られるインスピレーションなど、さまざまなことのつみかさねからしか生まれないのではないか、というのがぼくの持論だ。

ということで、話はひろがったが写真の本質への近道を知りたい人にこの本はおすすめです。


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