ホワイトな日に考える

西暦2xxx年。
多くの人のつよい願いと運動が実をむすび、世界の貧困は――徐々にではあるが――解消の道にすすみはじめた。

「すごいですよ! 貧困で死んでいく子どもの数が減って、頻度も3秒に1人から4秒に1人になりました!」
「おー、そりゃすごい」
「おいおい。アスタリスク3つのバンド、どうすんだよ!?」
「そりゃ4つにするしかないだろ」
「簡単にいうなよ。金型つくりなおさなきゃいけないし、不良率が上がるぞ」
「原材料費は節約できそうだな。いっそのことアスタリスク(=穴の大きさ)、大きくするか?」
「製品がかわったら、宣材ぜぇーんぶつくりなおしだぞ。店頭のポップとか、ホームページとか」
「あ、指パッチンのビデオもとりなおさないといけないんじゃ…。」
「ギャーまた有名人のアポとりですかぁ!?」
「それはバックに流れてる『チッチッチ』を『チチチチ』って速くするとか、映像のほうをスローモーションにするとか…」
「そりゃマズいだろ」
「そもそもさ、”4秒に1人”になったって時点で、インパクトは弱くなるだろ? 需要予測自体を考え直さないと…」
「ちょっと待った。これから”5秒に1人”、”6秒に1人”ってすすんでいくたびに、こんな議論しなくちゃいけないわけ?」
「…」
「ま、『キャンペーン』に収束はつきものだわな」
(この話は、フィクションであり、実在する団体・個人および運動や商品などとは関係ありません。)

ことし2005年の一大ヒットといえる例の白いバンドのキャンペーン。
ぼくも「貧困を作り出す世界の構造を変えることが必要」という目的には大賛成。

しかし、みょーーにメディア慣れしてて、有名人主導のCM的手腕に違和感をおぼえていた。
どうも「メディアにとりあげられなきゃダメ」「有名人が乗っかんないとダメ」という現状への固定的な見方がひっかかるというか。

でもって、商品としての白いバンドの売り上げの使い方なんかが問題になったりして。
結局、お店で買った場合、売り上げの半分以上は、製造コスト、流通コストで消えていくという。
その理由づけが「日本でこういったものを全国へ広く流通させようとするならば、通常(営利事業)の流通ルートに乗せて、お店においてもらう必要」という。
個々人のつながりや、運動母体のとりくみだけではひろげきれないというあきらめ感の裏返しのような気がするし、独占資本主義のしくみを全面肯定し、依存したうえで、「世界の構造を変えることが必要」といっても説得力にかけると思うわけ。

といっても白いバンドは300万個以上売れたということで、これはすごいことだと思う。
貧困問題にこれだけの人のエネルギーが注がれたという意味で。
その人たち一人ひとり――かかわった有名人も、白いバンドを買った普通の人も――その出発点となった気持ちの「値打ち」は不変のものだし、不変であってほしいと思う。
雑誌の白いバンドバッシングを見てると、その点の評価が弱い気がして。
ケータイ買って、ツーカーがダメだったら、ドコモに乗り換えたり、エーユーに変更したりする。
だけど「ケータイをもつ」という気持ち自体がかわるわけじゃない。
今回のキャンペーンに「?」と思った人がいたら別の運動を探せばいい、貧困を解消したいという気持ちまで捨てる必要はないんじゃないだろうか。

白いバンドがどうあろうと。
「キャンペーン」がどうあろうと。
貧困で死ぬ子どもの割合が”4秒に1人”になろうと。
貧困といわれる実態のあるかぎり。

そして、もう一つ。
戦争こそ、貧困の大きな因子だということ。

Was is over, if you want it.
Happy Xmas.
(John Lennon)

白いバンドが出る前から貧困の解消を願ってきた一人として。


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