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実話だったらおもしろい?

先日、「ドリームガールズ」について書いた後、オフィシャル・ホームページをながめていた。
ぼくは

ビヨンセが演じた主役・ディーナのモデルはダイアナ・ロスらしいとかのゴシップとか、そんなことどうでもいい気がする。
…具体的な「誰か」なら、そこにはかならず終わりがある。
…抽象的な人物で描くからこそ、そこに夢をたくすことができる、「楽しい」映画になってるんだと思う。

と書いたのだが、製作会社・配給会社の方はそう思ってないらしい。
オフィシャル・ホームページの「作品情報」→「プロダクションノート」あたりを読んでいると、実在の人物やレコード会社を描いたんですよーというのを売りにしたいらしい。

で、最近の映画の傾向で感じていたことにピーンと来たわけですよ。
つまり「実話ブーム」。

ここ最近、実話、もしくは実話にもとづくという点を押し出してる映画がけっこうあって、しかもそれなりにヒットしている。
2006年度興収10億円以上」の作品のなかだけでも、「男たちの大和/YAMATO」、「子ぎつねヘレン」、「フラガール」、「バルトの楽園」、「ワールド・トレード・センター」、「父親たちの星条旗」などの実話をもとにしたもの、また一応史実をふまえているというふれこみの「ダ・ヴィンチ・コード」、実在する病気をもとにした「タイヨウのうた」など、準ずるような作品もある。
現在公開中の作品にいたっては、「幸せのちから」、「マリー・アントワネット」、「硫黄島からの手紙」、「あなたを忘れない」などそうした作品が大集合してしまった状況だ。

この「実話ブーム」、なぜだろうかと考えると、第一に観客の側が「視覚的なリアル」に慣れてしまったというのがあると思う。
最初に「ジュラシック・パーク」を見たとき、「こんだけの恐竜、撮影のたびに檻から出したり戻したり、エサやったりたいへんだろうな…」と3秒ぐらい思った。
そういう新鮮な驚きがあった。
「フォレスト・ガンプ」など、「ぜったいありえない歴史的ウソ映像」を楽しませることで成立しているような映画が、アカデミー賞作品賞をとったこともある。

ところが観客はだんだん飽きてくる。
俳優やスタントマンの体をはったアクションも「どうせCGでしょ?」と思われてしまう。
だから「マッハ!」のように、逆に視覚的な迫力を多少犠牲にしても、「CGやワイヤーアクションをつかってませんよ」でひきつけるという逆転現象が起きる。

ところが、「実話」を大前提にすると、観客の目の前にある映像はたしかにつくりものだが、実在の人物が体験した映像の再現なのだ、と観客の側に大逆転の催眠術をかける効果があるのだ。

もう一つの理由は、脚本が楽になること。
たとえば、「AさんとBさんは偶然カフェで出会う」というようなシチュエーション。
映画にかぎったことではないが、受け手の側はだいたいそういう陳腐な「偶然」を許さない。
だから、「急に雨が降ってきたから、AさんとBさんは雨宿りのために同じカフェに入った」というように、必然性を生み出す努力をするのだ。
しかし、実話だと「現実になった」という前提そのものが必然性を与えてしまう。

「現実的なものはすべて合理的であり、合理的なものはすべて現実的である」(ヘーゲル)

多少論理や展開に無理があろうと「これが現実」、「それでも現実になった」と観客を納得させることができるのだ。

つまり、映画を作る側にとって、「実話」という冠はじつに「おいしい」のだ。
「ありえそうもない実話」と、「ありえそうな虚構」――どちらがつくるのが難しいかといえば間違いなく後者。

もちろん、実話であっておもしろい映画というのは大歓迎。
しかし、「ドリームガールズ」の場合はどうよ?
もともと虚構としてつくられた作品を、実話にしちゃおうというのはムリがある。
「実話」を売りにしたいなら、実名で登場してもらい、当時実際に流行った曲をつかうほうがいいんじゃないの?――と逆に思ってしまう。
虚構の映画として十分おもしろいのだから、この「実話化」のプロモーションはあきらかに蛇足だ。

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